Masukカエルへ自分から口づけをした翌朝、私は食堂へ入る直前になって、昨夜まで一度も気にしたことのなかった扉の取っ手を妙に長く握ったまま立ち止まり、このまま部屋へ戻って朝食を抜けば不自然だろうか、とかなり真剣に考えていた。
昨日までは、国王との真正番、九十日間の契約婚、白狼、月鏡、王位継承、兄王子の死という面倒な問題を抱えていても、朝食の席へ行くこと自体を恐れたことはない。それなのに、たった一度、自分から唇を重ねただけで、扉一枚の向こうへカエルがいると思うと妙に落ち着かず、監査院の査問会へ一人で入ったときより緊張している自分が腹立たしかった。
「リア監査官、入らないんですか」
背後からユアンに声をかけられ、私は反射的に取っ手を回した。
「今入るところです」
「三十秒くらい取っ手を見つめていたので、鍵でも壊れているのかと思いました」
「考え事をしてい
第89話 エリアス院長の署名はありませんでした。でも、彼しか知らない命令文がありました 三年前、カエルの自然形成を待たずに真正刻印の発現時期を前倒しするよう命じた記録と、エリアス院長が過去二十年近くにわたって作成してきた医療監査文書を並べた結果、一致した特徴は十二項目に達した。 単語そのものではない。 句読点の打ち方でもない。 もっと面倒で、もっと本人らしい癖だった。『死亡回避を目的として』『自然形成を待たず』『本人負担を最小化する範囲において』『ただし不可逆処置については後順位とする』 エリアスは医療介入を提案するとき、最初に必ず目的を書き、その直後に通常手順から何を変更するかを置き、最後に「ただし」で自分自身へ制限を加える。 七年前、私が監査院へ入ったばかりの頃にも、それについて本人から説明されたことがあった。『医療は助けたいという気持ちが強いほど、余計なことまでやります。だから自分へブレーキを書く癖をつけなさい』 当時の私は、その言葉をかなり立派な教えだと思った。 今。 目の前には。『対象王血Aの自然形成を待たず、死亡回避を目的として接触時期を前倒しする。ただし情動形成への直接介入は不可とする』 という三年前の命令文がある。 署名欄は消えている。 でも。 あまりにもエリアスらしい。「一致率だけなら八九・四パーセントです」 独立文書鑑定を担当した王都の老監査官が通信鏡越しに説明した。「ただし、この数字を『エリアス・モーン本人が書いた確率』とは解釈しないでください。今回は文体特徴の類似度にすぎませんから、本人の過去文書を参照して別人が書いた場合でも高い一致が出ます」「代筆もありますよね」
第88話 好きだから全部聞きたい。でも、好きだから聞かない部分も残します カエルへ自分から口づけをした翌朝、私は食堂へ入る直前になって、昨夜まで一度も気にしたことのなかった扉の取っ手を妙に長く握ったまま立ち止まり、このまま部屋へ戻って朝食を抜けば不自然だろうか、とかなり真剣に考えていた。 昨日までは、国王との真正番、九十日間の契約婚、白狼、月鏡、王位継承、兄王子の死という面倒な問題を抱えていても、朝食の席へ行くこと自体を恐れたことはない。それなのに、たった一度、自分から唇を重ねただけで、扉一枚の向こうへカエルがいると思うと妙に落ち着かず、監査院の査問会へ一人で入ったときより緊張している自分が腹立たしかった。「リア監査官、入らないんですか」 背後からユアンに声をかけられ、私は反射的に取っ手を回した。「今入るところです」「三十秒くらい取っ手を見つめていたので、鍵でも壊れているのかと思いました」「考え事をしていただけです」「陛下と何かありました?」「どうしてそこへ行くんです」「昨日、西温室から二人で戻ったあと、陛下が珍しく機嫌よく夕食の追加を頼んでいたので」 私は思わず立ち止まった。「追加?」「はい。肉料理をもう一皿」「それは普段から食べるでしょう」「そのあと甘い菓子まで食べていました。ノア君の硬い焼き菓子ではなく、厨房に蜂蜜菓子を頼んで」「……それは珍しいですね」「でしょう?」「だからといって私と関係があるとは」「僕は何も言っていません」 ユアンが笑った。 こういうとき、いつも以上に彼が腹立たしい。「今日はあなたの職員鍵について第三者鑑識の中間報告が来る予定ですね」「急に仕事へ逃げまし
第87話 刻印が聞こえないまま、私は初めて自分から彼に口づけました 私がカエルと初めて口づけをした日の朝、王都から届いた最初の公文書には、「真正番であることを国民へ証明するため、陛下とリア・ヴェイル監査官は速やかに感情共有を完全再開し、王妃候補として正式な番誓約式を行うことが望ましい」と書かれていた。 昨日までなら、こんな馬鹿げた要求を読めば腹を立てるだけで済んだと思う。 ところが今朝の私は、その一文を読んだ瞬間に腹を立てるのとほとんど同時に、昨夜、部屋の前でカエルの手を離すことを少し惜しいと思った自分まで思い出してしまった。 そのせいで、怒ればいいのか恥ずかしがればいいのか分からなくなった。「お姉様、さっきから同じところを四回読んでるけど、文章が難しいの?」 朝食の席でセレーネに言われ、私はようやく手元の公文書から顔を上げた。「文章自体はかなり単純です。むしろ単純すぎるから問題なんです」「じゃあ、どうして四回も?」「内容に腹が立っているので、反論文を書く前に読み直しています」「ふうん」 セレーネは疑わしそうに私の顔を見たあと、向かいに座るカエルへ視線を移した。「陛下、何か知ってる?」「俺に聞くな。今朝はまだまともに話していない」「本当に?」「朝食前に廊下で会って、『おはようございます』と『おはよう』しか言っていない」「お姉様が陛下に対して『おはようございます』しか言わなかったの?」「それくらい普通でしょう」「最近なら、そのあと『昨夜は眠れましたか』『昨日見た映像の後遺反応はありませんか』『朝食はちゃんと食べましたか』くらい聞きそうなのに」 かなり失礼な分析だった。「私を何だと思っているんです?」「心配性なのを仕事だと言い張るお姉様」
第86話 感情共有を戻す前に、私たちは「戻さない選択」も残すことにしました 兄君を抱きながら泣いている三年前のカエルを映像で見た翌朝、白狼封印を診察していた老医師から「現在の状態なら、閉鎖している番共有を段階的に再開できます」と告げられたとき、私は自分でも意外なほど嬉しくならなかった。 もちろん、悪い知らせではない。 外周封印が部分的に破れた直後の私は、カエルから流れ込む感情や疼痛だけでも白狼核が反応し、最悪の場合には再び制御を失う危険があった。そのため生命力、疼痛、情動の共有を一度すべて閉じ、真正番としての根だけを残した状態で過ごしてきたのだから、再開可能という診断自体は私の身体が安定した証拠だった。 それなのに。「全部を一度に戻す必要はないんですよね」 私が最初に尋ねると、老医師は少しだけ笑った。「リア監査官なら、まずそこを聞くだろうと思っていました。第一原典で確認された古い接続方式なら、生命補助、急性危機警報、疼痛共有、情動共有を別々に管理できます。現行番制度では完全接続を正常状態としていますが、本来は本人たちが必要な機能だけ選ぶ仕組みだったようです」 カエルが診察室の向かいで腕を組んだ。「逆に言えば、今のまま何も戻さないという選択もできるのか」「医学的には可能です。真正共鳴の根幹そのものを切断しているわけではありませんから、共有機能を閉じた状態でも生命維持上の問題はありません」「白狼封印への負担は?」「現在はむしろ閉鎖状態のほうが安定しています。ただし、限定再開しても危険域へ入る可能性は低いところまで下がりました」 つまり。 戻せる。 でも。 戻さなければならないわけではない。 その違いが、以前なら存在しなかった。「どうしますか」 老医師に尋ねられ、私はカエルを見る。 彼
第85話 三年前、カエルは月鏡の前で兄を抱いていました 三年前の夜、カエル・ドラヴェンが月鏡の前で何をしていたのかを示す映像が復元できたという知らせが届いたとき、私は嬉しいとは思わなかった。 むしろ最初に思ったのは、これを本人へ見せていいのだろうか、ということだった。 カエルが失っている三日間は、単に「事件について覚えていない時間」ではない。その始まりには兄の死があり、その直後には急な王位継承、王血月脈の過負荷、高濃度の同期薬、記憶安定処置、そして本来なら数年後だったはずの真正刻印形成が重なっている。 もし映像の中へ、自分が兄を傷つけている姿があったら。 もし逆に、助けようとして失敗している姿があったら。 どちらであっても、見なかった頃の自分へは戻れない。「先に私たちだけで内容を確認することはできます」 ユアンが言った。「陛下本人へは、監査上必要な部分だけ文章で説明する方法もあります。映像そのものを見る必要はありません」 私は頷いた。「それも選択肢として出しましょう。ただし私が先に見た場合、あとから説明するとき無意識に表情へ出る可能性があります」「そこまで気にします?」「この人、最近かなり私の顔を読めるようになっているので」 隣にいたカエルが呆れた。「本人を目の前にして、俺の映像をどう扱うか勝手に相談するな」「では聞きます。三年前の月鏡関連映像が部分復元されました。あなたと、兄君と思われる人物が映っています。ただし内容はまだ私も見ていません。あなた自身が先に見る、私たちだけで確認して必要事項を文章で伝える、映像を見ずに解析結果だけ聞く、今日は何も確認しない、この四つから選べます」 カエルは私を見た。「お前も見ていない?」「はい」「俺が見ないと言ったら?」「
第84話 監査官を殺すより、監査結果を信じられなくすればいい 私が一度も書いた覚えのない文章へ私自身の署名が付され、「古代原典の一部は王権制限を目的として意図的に再構成した」と記載された偽造頁が、独立鑑定へ送る資料の中から発見されたという報告を受けたとき、最初に感じたのは恐怖より怒りだった。 誰かが私を殺そうとすることには、ここ数週間で嫌になるほど慣れてしまったと言えばおかしな話だが、襲撃者なら捕まえられるし、毒なら成分を調べられるし、刻印を偽造されたなら亀裂を見つけられる。しかし、「リア・ヴェイルは政治目的のため古代資料を書き換えた監査官である」という疑いを一度社会へ撒かれた場合、それを完全に回収することは、焼かれた紙を復元するよりずっと難しい。「問題の頁を原本から隔離し、誰が最初に触れたのかを時刻順で全部出してください。それから私の署名について、通常の筆跡照合だけではなく、月印認証と使用されたインク、紙の年代、押印圧まで分けて調べます」 私は王都から送られてきた複製映像を見ながら指示を出した。 ユアンがすぐ隣で補足する。「偽造頁が見つかった箱そのものは、北境から直接発送した複製ではありません。北境原本を王都の中継監査所で再複製し、独立鑑定員へ配布するため十二部へ分けたうちの一部です」「つまり、北境を出たあとに混入した可能性がある?」「あります。ただし北境で作成した複製そのものが差し替えられていた可能性も、まだ排除できません」「では、私たち側の保管記録も全部止めて確認します」 セレーネが困惑した顔をした。「でもお姉様、原本はここにあるでしょう。偽造頁と見比べれば、どっちが本物かすぐ分かるんじゃないの?」「私たち自身は分かります」「だったら」「外の人も同じように信じてくれるとは限りません」 私は自分でも嫌になるほど、その言葉を冷静に言えた。「私が『こちらが本物です』と示して







